KOKA´S LANDSCAPE

だいぶ以前になりますが、関西の新聞紙上をにぎわした話題に、
「学校の先生も制服を着るべきだ」という内容のものがありました。
きっかけは小学校の子供を持つ父親の投書でした。

あるとき、子どもの通う学校で公開授業があるというので、
その父親は慣れないネクタイを締め、スーツを着込んで学校に向かいました。
いつもお世話になっている先生に、敬意と感謝の気持ちを込めて、
精一杯の正装をして出かけたのです。
教室の後ろで、同じように身なりを整えた他の父親母親たちに交じって、
父親は少し緊張しながら先生を待ちました。

入ってきた先生はラフなジャージ姿で、足元はサンダルでした。
父親は驚き、落胆しました。
先生が、自分たちの存在を軽んじているような気がしたのです。
父親は、その思いを新聞に投書し、共感した人々によって、
先生たちこそ制服を着るべきではないかという話に発展していったのです。

感謝や敬意、まごころや励ましを表すのは、言葉だけではありません。
服装もまたそれらを表すことがあり、
逆にまた、先ほどの投書のように、人を傷つけがっかりさせることもあるのです。

晃華では先生の制服はありません。

けれども皆さんの前に立っておられる担任の先生、
または学年の先生は、男性ならネクタイを締め、
女性なら心の行き届いた服装をしていることでしょう。

それは、毎日満員電車に揺られながら、
また雨の中を自転車に乗って、教室に集まってくれる皆さんに対し、
「よく来てくれたね。今日も元気でよい一日を過ごそうね。」
という、先生の温かな思いの表れです。

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みなさんが朝礼のひと時、上着のボタンを締め、ネクタイをただすのは
「先生、今日もよろしくお願いします」という生徒の皆さんからのメッセージです。
朝夕の教室が、そのように、生徒も先生もお互いを尊重し合い思いやることをのできる、
さわやかな空間であることを願っています。

 

2018/05/01 先生の言葉

4月14日の宗教朝礼より

来週、四ッ谷の聖イグナチオ教会に中高全員でイースター行事に行きます。全校生徒900名以上、教員を含めて1000人近くが入れる教会はなかなかありません。そこで、中2以上は知っているかと思いますが、中1の皆さんのためにも少しだけ建物の説明をしたいと思います。

皆さんがミサにあずかる聖イグナチオ教会の主聖堂はイースター・復活祭にふさわしい構造をしています。
まず正面にはイエス像がありますが、たとえば皆さんの教室の正面にある、十字架に磔になったイエス像ではありません。私たちを招くように両手を下に広げた大きなイエス像があり、十字架はその後ろに跡形のようにうすく表現されています。これが復活のイエス像です。磔の像でないのは、カトリック教会ではかなり珍しいものです。
座席の周りには美しいステンドグラスとともに、大きな柱が12本並んでいます。この柱は12使徒を表しており、それぞれの柱には使徒の名前が書かれたプレートが付けられています。
建物の形は楕円形で、イースターの象徴である卵を表現しています。つまり、イースターエッグを連想させる卵形の教会で、十字架から解放された復活のイエス像の周りに、12使徒みんなが集まり、皆さんと共にイースターをお祝いする、ということになるのです。まさにイースター行事にぴったりの教会です。

 

さて、今日は12使徒の一人、トマスについて話をしたいと思います。
イエスが十字架上で殺されて葬られた後、墓には亜麻布だけが残されていました。そんな中、弟子たちは自分たちも殺されるかと思い、建物に鍵をかけて隠れていると、彼らの真ん中にイエスが現れ、復活した証拠に傷ついた手と脇腹をお見せになりました。ところが、この時トマスは外出しており、ご復活のイエスにお会いすることができなかったのです。ヨハネ福音書には次のようにあります。

『ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』

このトマスの姿はまるで疑り深いわれわれ現代人のようです。何にでも証拠を求めたがります。しかし、この時のトマスの状況をよく考えてみると、われわれとはちょっと事情が異なります。他の弟子たちの前には現れて、自分だけが見ていないのです。正直言って、トマスは悔しかったのではないでしょうか?
ここで、「疑う」という態度にも2種類あることが分かります。最初からイエスの復活を信じるつもりがなくて「疑う」のと、イエスの復活を信じたくて「疑う」というものです。現代人は前者、トマスは後者ということになるでしょうか。

 

さて、その8日後、イエスはトマスの前にも現れます。

『戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」』

トマスは、自分の傷跡に手を入れろというイエスの言葉には従わず、即座に「わたしの主、わたしの神よ」と答えています。イエスの復活を信じたくて証拠をほしがったトマス、イエス様にもう一度会いたかったトマスの目の前に、ついにイエス様が現れて、「わたしを見たから信じたのか」と直接叱って下さったのです。もはや傷跡に手を入れる必要があるでしょうか。

 

2000年経った今でもキリスト教の信者が存在しているのは、イエスが「見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃったからではないでしょうか。それからまた、この話を読むと、皆さんもよく知っている「本当に大切なものは目に見えない」という星の王子様に出てくる有名な言葉も思い出したりします。

聖イグナチオ教会に行ったら、トマスの柱をさがし、そこから復活のイエス像を見て、この話に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

2018/02/28 先生の言葉

マナー講座より

冬季オリンピックが閉幕しました。世界の中で日本人が活躍をするのを見るとやはりうれしいものですね。日ごろあまり知らないスポーツでも、つい応援したくなりました。
しかしその中でふと思いだしたのは、2大会前の冬季五輪のことです。スノーボードの選手が、日本選手団の制服を着崩して空港に表れ、それがニュースとして流れました。ネクタイをゆるめ、ズボンを腰まで下げたその姿は日本中から批判を浴びて、とうとう彼は開会式を欠席せざるを得なくなりました。

制服というものは、所属を表し、一体感や団結といったものにつながります。また服装は、目には見えない人の心を表す印でもあります。

公の場に出るとき、何かに対する意気込みを表す時、服装を整えることでそれにふさわしい心の状態であることを表し、また、逆に服装を整えることによって背筋が伸びて、心もその場にふさわしくなっていくのです。それがわかっているからこそ、服装を整えることが求められるのです。
見た目で判断するな、と思う人がいるかもしれません。でも、社会でかかわるすべての人と分かり合うことはできません。そしてたとえ親しい人であっても、いつでもその人の心がわかるなどということもありません。だからこそわかりやすく、見た目で表すことが社会のマナーとして求められるのです。

さて、あなたはいま朝礼に出ていますね?朝礼は一日の始まりであり、お祈りや聖歌を歌う一つの儀式であり、公の場です。
それにふさわしい心を持っている自分であるということが、ちゃんと服装に表れているでしょうか。

2018/02/26 先生の言葉

宗教朝礼より

私は高校まで岐阜の田舎で育ち、ほとんどキリスト教とは無縁な環境だったのですが、カトリック系の大学の物理学科に進学し上京しました。
物理学科には、神父様の教授が何人もいらして、私はたいへん困惑しました。神様の存在や奇跡を信じることと、最先端の物理を研究することが、矛盾しているとしか思えなかったからです。ガリレオが地動説を唱えて宗教裁判で有罪になったことも、印象深く、みなさんの中にもそう考える人が少なからずいることでしょう。
その後、私は物理学そのものよりも、その歴史や哲学的な側面に興味を持つようになりました。卒業研究は、日本ではじめてニュートンの著書プリンキピアを翻訳した志筑忠雄についてでした。日本にまったく概念のない物理用語、たとえばForceとかMassといった言葉をどのような日本語に置き換えるのか、彼の翻訳の苦労は想像するに難くありません。私は英語が得意ではありませんが、訳語が定着した今日でも、物理の本は英語の方がずっとわかりやすいと感じます。

勉強を重ねていくうちに、異国の学問である物理を理解するためにはそのバックグラウンドとなるキリスト教の理解は不可欠であると思うようになりました。さらに私は、信者になれば大好きな大好きな物理の本質を知ることができるのではないかと考えました。よく、どうして信者になったのですかと聞かれるのですが、ほんとうにこのような不遜な考えで洗礼を受けました。この場をお借りして、神父様やシスター、信者の皆様に、そして何より神様にお詫びしたいと思います。
しかし、わたしの考えは大当たりでした。ガリレオ、ニュートンをはじめ、多くの物理学者は敬虔なキリスト教信者であり、神のみわざを知ることをモチベーションに研究に邁進したことがよくわかったからです。中でも中学2年生以上の人がよく知っているファラデーは、何もない空間にも神の意志が宿ると考え、磁場や電磁誘導の発想を得たと知った時、そうだったのかと痛く感じ入りました。みなさんもファラデーのおかげで、空間を飛び交う電波を利用したスマホなどを活用できているのです。ファラデーの信仰が強くなかったら、今頃、昔ながらの線のつながった電話以上の発展はなかったはずです。

さて、唐突ですが、将棋の羽生善治さんは、永世名人になったとき、自分はまだまだ将棋が何たるかをわかっていないとおっしゃったことに私は衝撃をうけました。将棋は人間が考え出したルールにのっとって行う単なるゲームなのに、わからない、しかも永世名人になった人がわからないとはどういうことなのだろうと思います。
物理も、人間が、自然を理解するために考え出したアプローチ、方法論、枠組みに過ぎません。それなのに、まだ力とは何か、質量とは何か、明確な答えは得られていません。将棋にしろ物理にしろ、すべて理解している存在が神様なのではないでしょうか。そして、私たちは神様の偉大さに畏敬の念を抱きつつも一歩ずつ近づいていく努力をする存在なのではないかと思う、今日この頃です。

2018/02/22 先生の言葉

宗教朝礼より

休日の日は勉強がてら美術館によく作品を見にいきます。日本で多く展覧会が催されているのは印象派の作品ですが、それ以外ではルネッサンス期やバロック期の作品も人気で数多く行われています。特にルネッサンス期やバロック期の作品は聖書の場面を描いた作品がほとんどです。そのような宗教画について、若桑みどり先生の「絵画を読む」をもとに話をしたいと思います。

宗教画が描かれるのには三つの目的がありました。
第一の目的は、ルネッサンス期までの聖書は、日常的に話される言葉で書かれておらず、ラテン語で書かれていました。ですから一般市民は、聖書やその注釈を直に読めなかったのです。読めるのはラテン語を勉強した神父様のみでした。なので、礼拝の時のお説教は聖書を使いながらではなく、描かれた絵「宗教画」を用いて教えられました。
第二の目的は、宗教画を毎日見ることによって、人々の記憶の中にそれらの描かれた宗教的神秘が生き生きとしたものとして残されるからです。
そして第三の目的は私たちにとって文字や言葉よりも、絵画のようなイメージのほうが感情移入しやすく、目で見ることが効果的だからです。このことを教会はよく知っていて、宗教画を画家に描かせたのです。

宗教画は以上にあげた目的などで描かれました。神父様の話を補う役割がとても大きかったのです。そしてある意味では聖書のような役割がありました。
そして、当時の教養のある画家は、描く物にある意味をつけて描きました。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「聖アンナと聖母子」は祖母アンナの膝の上に母マリアをのせ、マリアの膝の間には息子イエスがいて、イエスは羊を抱えています。
母から子へ、子から孫へという生命の授受がとてもはっきりと表されています。イエスが抱きかかえている羊は生贄の羊です。人類を救うために、犠牲になったイエスそのものです。イエスは生まれた時から、自分は人類のために、死ぬために生まれてきたのだということを伝えようと羊と遊んでいるのです。

今言った内容が絵の横に説明書きが施されているわけではなく、絵を見てその画像を読み解く行為、あたかも聖書を読むような行為、「イメージを読む」ということが宗教画で行われました。私たちは少しでも描かれた物、例えば花や動物などの隠れた意味を知っていると宗教画の絵を見る時に深みが増してきますし、それが教養にも繋がります。

宗教画を見る機会があったら、今日話したことを思い出して、注意深く絵を鑑賞してみてください。

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